認知言語学

言葉というのは不思議なもので、中学か高校の時から言語学にそれとなく興味を持っていた。当時は変形英文法というのが最新(?)の理論でどうやら理系的に理解できそう、ということで大修館書店の専門書を買ってよくわからないながらも読んでみた。一方で、その当時はポスト構造主義がどうのこうので、一般向けに現代思想の入門書などもたくさん出ていた時代で、受験教材に出てきた丸山圭三郎の文章からソシュール言語学なるものにもちょこっとだけ触れてみた。結局のところ、丸山圭三郎の言語至上主義的な主張は完全に得心することはできなかったけれど、変形(生成)英文法的なある意味単純な理論だと、特に意味論を扱うのは難しい、というか、どうしても問題が残る、ということはなんとなく理解した。具体的には、連続した波長スペクトラムのどこからどこまでを何色と命名するか、ないしは定義するか、ということに絶対的な方法があるわけではない、というのが最も簡単な問題提起で、これがありとあらゆる語の定義において言えるのではないか、ということ。そして各言語体系において、どこで区分するのか、という言訳(ことわけ)は言語体系ごとに異なる、ということ。究極的には個人単位でも細かいことを言えば違っているだろう。

さて、その後は生成英文法の後には生成英文法の弱点を補うような文法理論が色々出てきたようで、これもしばらく前に興味を持ったときに買った「実例で学ぶ認知言語学」というのが手元にある。でも読み返してもよく分からないし、新しい本を買ってみたくなって、「認知言語学の大冒険」なる本を買って読んでみた。

で、一通りささーっと読んでみたのが、やっぱり認知言語学のよさがよく分からない。この本自体は認知言語学の歴史を中心的な研究者の仕事とともに紹介し、最後にそれぞれの研究者の言わんとするところを付き合わせてまとめているので、認知言語学というのこういうものですよ、ということを知るには非常に良いと思う。

でも目下のところ一番興味があるのは、言語のコンピュータ処理に寄与できる言語理論の方法論。といっても自分でごりごり自然言語処理しているわけではないのだけれど、最近仕事でそれなりの分量、機械翻訳を相当使ってみて、少なくとも技術文書は機械翻訳無しでは無理だな、と感じた。もう最初から自分で訳文を作らなくても、DeepLとかで5000字ずつ食わせて翻訳し、あとで間違いを手直しすると、一から自分で訳文を作るのと比較して速度も3-4倍以上に上がるし、なんといっても精神的疲労が違う。そう、翻訳ってものすごく疲れるのだ。

そうそう、で認知言語学の話だけれど、当たり前のようだけれど、これは物事の認知の仕方が言語に反映されているのですよ、という理論であり、その認識をベースに作り上げられている。

で、認知、ということであれば・・・という話はまた後で。